豊年だ! と思わず叫びたくなる豊かな小説。 志賀直哉/暗夜行路

公開日: : 小説(国内)

志賀直哉、名前くらいは聞いたことがあるであろう文豪。
文学史的には白樺派を代表する作家。

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でも近代文学史って良くわからないんだよね。
すごく興味あるんだけど、平易にわかりやすくまとめてくれた文学史の本って無いかな。
世界と、日本、両方。

元々、今さら読もうと思ったきっかけは、年始に映画の『森崎書店の日々』を見たから。
途中で録画が切れていてがっかりだったのだけど、
神保町の古本屋が舞台で、そこの常連の客が志賀直哉をお勧めしまくるシーンが
妙に印象に残っていて・・・。

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そんな無意識への刷り込みがあった状態で、
書店に行ったら、蓮実重彦の『「私小説」を読む』が面陳されていて、
それもまた志賀直哉のことを語っていたものだから、
これは読まねば、と一念発起した次第。

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ちょっと調べてみたところ客観的、科学的に
人間の行動を描こうとした自然主義に変わって、
1910年代の文学の中心となったのが白樺派。
人間肯定を指向し、理想主義・人道主義・個人主義的な作品を制作した。
で、武者小路実篤とか学習院のお坊ちゃん連中が多かったらしい。
まぁいわゆる高等遊民的な世間知らずのお坊ちゃん達の人間賛歌。

自然主義文学が人間の暗い側面や社会悪などをも描く傾向があるのに対し、
白樺派は大らかだそうだが、じゃあこの『暗夜行路』っていったい何なのだろう?
志賀直哉、唯一の長編小説なのだけど、
そんなに言うほど大らかで平和な人間賛歌なんかじゃない。

主人公は金に困ることなく生きていける高等遊民的な生活をしている作家。
が、実は祖父と母の過ちによる子で、
そういう境遇を理由に、結婚を断られたり。
ようやく結婚できたと思ったら子供は死んでしまい、
妻も従兄と不義を犯す。まぁ結構過酷な運命。
その懊悩やら何やらを描くのだけど、
非常に無駄が無く、硬質な文章で語られるところが志賀の魅力なのだろう。

これも何かで読んだ話だけど、志賀直哉は推敲を重ねると、
どんどん原稿が短くなっていくんだそうな。
そういう磨き上げられた文体ってとても好み。

本作品では主人公が作家ということもあり、
作家としての感覚を語らしている場面も非常に面白い。
例えば以下のくだり。

信行はその日の事をお栄に話した。
信行の話し方はそれ程の経歴を持った、
そしてそれ程に悪辣な女だという所を幾らか強調した話し振りなので、
傍で謙作は余りいい気がしなかった。
すると、今度はお栄が如何にも、いまわしそうな顔つきをしながら、
「ひどい女もあるものね」と云った。
謙作は急に腹が立って来た。
彼は「悪いのは栄花ではない」こういってやりたい気がむらむらとした。
彼には十二三の青白い顔をしたいたいたしい高座の栄花が浮んで来た。
「あの小娘がどうして、ひどい女だろう……」
彼は変に苛々して来た。
そして不図その時、「ああ、これは書く事が出来る」と思った。
P.240

確かに人の人物評を聞いていて、違う、そうじゃない、
そう見えるかもしれないけど、本当はそうじゃない、って思う瞬間ってある。
あの妙な感覚が「ああ、これは書く事が出来る」って言う感覚なのかってのが
ものすごくハッとした。あぁ、確かに物語はこういうところから生まれてくるんだな。

そういう感覚的なところの表現も巧みで、欲しいものを買うか、買わないか、
なんていう身近な逡巡も、共感。

彼はそれをもう一度見て、若し今日も欲しい気がしたら、買ってもいいと考えた。
三ヵ月程貧乏暮しで我慢すればいいのだと思った。
が、今日見ると前日程欲しい気はしなかった。
それは一寸淋しい気持でもあった。
五六年前までは欲しいと思い出すと、例えば浮世絵のようなものでも、
手に入れるまでは気になって仕方ない方だったが、
段々に近頃は一つ物に妙に執着が感じられなくなった。
物を欲しいと思う、前日既にそれを珍らしい事だと思っていたが、
案の定、今日はもうそんな気がしなくなっている。
これは彼には矢張り淋しい事だった。
が、同時に貧乏せずに済んで却ってよかったとも思った。
P.266

そしてなんか物への執着が薄れて、
物欲が弱くなっていくのがなんか寂しい感覚ってある。
夢中になれること、もの、がどんどん減っていく感じ。
そんなのつまんないから嫌なんだけど、
前よりも勢いがなくなっている気がする。
まぁ子供が出来たりして身動き取れなくなってる感じ何だけど、
本来、そんなことに縛られる必要は無いはず、というか、
もっと一緒に突っ走ってもいい気がする。

子供といえば、生まれたときの父親の視点、とかもリアル。

謙作は時々眠っている赤児を覗きに行った。
然し、それは一種の好奇心のようなものからで、
これが自身の肉親の子であると云う事は、どうも、しっくり来なかった。
彼は何か危っかしい感じで、抱いて見たいとも思わなかった。
直子の方はもう本統に様子などには母親になり切っていた。
乳の時間が来て、寝ながらそれをやっている時の如何にも落着きがあった。
そして赤児も安心し切って鼻を埋める位に吸いついている所などを見ると、
謙作はそれを大変美しい物のようにも思うし、
又どうかしてそれが白い乳房にえたいの知れぬものが喰い入っているような感じで
気味悪く感ずる事もあった。
それはこれ迄こう云う生れたての赤児を見る機会が彼には殆どなかったからでもある。
P.408

子供がかわいくないわけではまったく無いけれど、
父親と子供は、最初他人として対峙する感覚ってのがあって、
これもそういう瞬間の描写。
こう思うと、ふと気になる箇所も本当に
そのときの自分の状況によって違うんだろうなぁと感じる。

だって、学生の頃に読んでいたら、この描写なんかまったく気にならなかっただろうから。
また、すべての蔵書をひっくり返して読み直したい衝動に駆られる。

あとは、不幸のどん底にいるときの描写も気に入った。

どうして総てがこう自分には白い歯を見せるのか、運命と云うものが、
自分に対し、そう云うものだとならば、そのように自分も考えよう。
勿論子を失う者は自分ばかりではない、
その子が丹毒で永く苦しんで死ぬと云うのも自分の子にだけ与えられた不幸ではない、
それは分っているが、只、自分は今までの暗い路をたどって来た自分から、
新しいもっと明かるい生活に転生しようと願い、
その曙光を見たと思った出鼻に、初児の誕生と云う喜びであるべき事を逆にとって、
又、自分を苦しめて来る、其所に彼は何か見えざる悪意を感じないではいられなかった。
僻だ、そう想い直して見ても、彼は尚そんな気持から脱けきれなかった。
P.431

運命が、白い歯を見せる。
なんかこの一言の表現力ってすごい。
絶望も、畏怖も、怒りも、諦念も、色んな感情が渦巻いているな。

で、色々あるけど、『暗夜行路』の山場は豊年揉み、これは間違いない。
これだけのために読む価値あるな。

彼は然し、女のふっくらとした重味のある乳房を柔かく握って見て、云いようのない快感を感じた。
それは何か値うちのあるものに触れている感じだった。
軽く揺すると、気持のいい重さが掌に感ぜられる。
それを何と云い現わしていいか分がらなかった。
「豊年だ! 豊年だ!」と云った。
そう云いながら、彼は幾度となくそれを揺振った。
何か知れなかった。が、兎に角それは彼の空虚を満たして
呉れる、何かしら唯一の貴重な物、その象徴として彼には感じられるのであった。
P.267 – P.268

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